明 日 の こ と は・・・

小田垣雅也

 

 親しい友人である関田寛雄さんが書いたエッセーの中に、「凡そ信仰とは分かってしまってはお終いである。不信が残り続けるからこそ、信は信としてのダイナミズムを持続し得るのである」とあり、そのとおりだとわたしは思った。もともとそのエッセーは「キリスト教とユーモア――椎名麟三を回顧しつつ」という題のものであり、人間が信仰を求めながら、それを得たという確証をえられず、しかしそういう形で信仰を持っているという状況が椎名の言う信仰であり、それはユーモラスな状況のものではないかという趣旨のものである。椎名には、わたしも度々書いたことがあるが、「信じられないということ」というエッセーもある。それによると、信じられないという事態は、信じられるということの裏側の事態であり、信じられないという事態がなければ信じられるという事態もなく、それならば、信仰の中で、信じられないということも復権させようではないか、と言う。信と不信の二重性である。むしろそれが信である。この事情は、泣き笑いのようでユーモラスだ。「これが信仰だ」と言って、明日のことまで、分かってしまってはいないのである。

 また、これはいつかも触れたことがあるが、井上洋治神父という、わたしがもっとも尊敬し、かつ信頼している神父がいる。信頼するというのは、井上神父の神に対する全幅の信仰を信頼しているのである。しかしそれはどういうことか。わたしはどちらかと言うと、自分がプロテスタントでありながら、倫理的・論理的要素の強いプロテスタントの信仰より、何か幅のあるカトリックの信仰のほうが親しみやすい。「神に対する全幅の信頼」などというと、プロテスタントの場合、とくに近代の倫理的な指向の強いプロテスタント信仰では、信仰が純粋で透明な、挟雑物を許さないものになる。信仰もそういう意味で分かりきったものになる。イエスもそのような人物の典型として理解されることになる。教会の伝統とか歴史の必然性は、原理的には、ここにはなくなり、イエスのみが問題となっている。「信ずるものは幸いなり」と言って、そういう信仰を説く牧師さんが多いのではなかろうか。一時はやった「信仰は決断だ」というキルケゴールの亜流のような言い方も、信仰から不信という挟雑物をとりさって、純粋にイエス・キリスト信仰のみになる決断という趣があるようだ。しかし信とは、不信を切り捨ててしまうような、ある意味で分かりきった割り算のようなものないのではないか。

 井上神父にはそういう決断信仰論のようなところがない。井上神父には不信の要素すらあるのである。井上に「右を見ても 左をみても」という詩がある。少し長いが、引用してみよう。「アッバどうしてこう哀しいことばかりで あふれているのでしょう/晩秋のくすんだ薄暮の光に包まれて/烏が一羽/何を訴えたいのか/黄ばみはじめたけやきの梢で/ひくく ながく/ないています/ぼくの心もなんだか落ちこんでしまって/疲労が/鉛のように/手足にまとわりついてきます/この不透明な心を抱きながら/祈ることしか/ぼくにはできないみたいです/アッバ アッバ 南無アッバ/ああ南無アッバ 南無アッバ/これでいいのですよね」。この詩の最後「これでいいのですよね」という井上神父の問いかけは、井上の信仰が自明なものではないこと、挟雑物のなにもないクリアな決断のようなものではないこと、さらに言えば自分の信仰に対する井上の自信のなさすら表現していよう。井上はそれにもかかわらず、「南無アッバ」と祈るのである。井上神父は目が弱視のよしだが、同じような問いかけ、つまりクリア・カットな自信に満ちたものではない信仰は、井上のいろいろな場所にでてくる。「寝たっきりになることを/目が全く見えなくなることを/何か恐れているわたし・・・・・でも/アッバ/そうなったときには/弱いわたしだからこそ/おみ風さまは/必ず しっかりと/抱きとめてくださるのでよね」。

 人間には、クリア・カットな一元的信仰というのはないらしい。そういう意味で、「明日のことは、今日決めてしまうことはできない」のだ。決断信仰論は、人間の実情からはなれた抽象ではないのか。井上神父にしてすらそうである。関田の言葉によれば「不信が残り続けるからこそ、信は信としてのダイナミズムを持続し得るのである。」むしろそれが、人間が相対的存在であり、時間の流れの中で生きていることの意味ではないか。人間が神について「分かってしまってはお終い」なところがあるのだ。分かってしまったものを、人間はわざわざ信ずることはないだろう。それが「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労はその日だけで十分である」の本意ではなかろうか。

 

 このことは信仰に限らず、人間一般についてもいえることだと思う。先月の説教でも述べたが、わたしはいま、欝と神経症(離人症)になやんでいる。それで森田正馬博士の療法とか、それに類した本をいろいろ読む。森田療法とは一口で言うと、神経症の具体的症状はそれを切り捨てようとすればするほど、切り捨てようとする努力の対象として増殖し、切り捨てることはできないから、それを「あるがまま」に認めるということ、それが治癒の第一歩であるというものである。このことは先月の説教で(クリスマスに相応しいとは思えない説教だったが)書いた。これは信じようとすればするほど、信の裏側で信をあらしめる事実として不信が増殖するのと同じ心理構造である。不信を切り捨てて、信だけの現実になるなどということは、人間の認識にはできない。

 それに対してわたしが通っている精神科の K 医師は、「もう森田療法の本を読むのは止めなさい」とわたしに言ったのである。それはわたしがこれ以上、いくら森田療法について読んでも同じだということもあるであろうが、本当の理由は「分かってしまってはお終い」のところがあるからであろう。分かると言うことは確認するということであり、言い換えれば、そのことに捉われているということである。森田療法の裏側の事情として、神経症状は確認され、したがってなくならない。光があるためには影がなければならないのと同じである。だから論理的に確認しないままにしておく。そして別の方向に気持ちを向ける。 K 医師は、そのように言ったのだと思う。つまり本など読んで確認したりしないで、明日のことは明日自身が思い悩むに任せる。そのことが大事と K 医師は言ったのである。それが治癒への第一歩であると。厳密に言えば、これは症状がなくなるという意味での治癒ではない。症状はそのままである。症状はなくならないまま、気にならなくなる。治らないまま治るのである。

 明日のことは明日自身が思い悩むに任せるというのは、そういうことであろう。明日のことを、今日悩んでも仕方がない。それは予期恐怖という、神経症独特の心理だ。それをなくすることが、「その日の苦労は、その日だけで十分である」の意味ではなかろうか。だから、いまこんなことを書いていることも、本当はするべきではないのである。それは確認することであり、捉われていることである。

 もともと人間の心とは、「心は万境にしたがって転ず」と言われるが、それはたとえば信仰一本に、迷いもなく、クリア・カットに信従するということではないだろう。心は目前の事情に「あるがまま」に従うことによって自然であり、本来的なのである。分かってしまって、それにとらわれてはお終いなのだ。関田や井上が言うように、である。分かってしまうと、たとえそれが信仰であっても、それに対して人間は不自由を感ずる。信仰は人間を束縛する枠ではない。それは自分に対する善意の評価であっても同じだろう。

 

 しかし、「明日のことは明日に任せる」ということは、無責任ということではない。むしろ逆である。人間としての責任ということは、あらかじめ分かっていることに身を任せることではない。そのほうが安易で無責任だ。むしろ「明日のことは明日自身で思い悩む」に任せ、その時々の状況に応じて生きていくこと、それが人間のとるべき責任ということだろう。天然自然さと人間としての責任とは同じことの表裏である。今日の聖書は「マタイによる福音書」六章二五 ~ 三四節だが、この有名な箇所には、人間が空の鳥のように、また野の花のように天然自然に生きることが薦められ、最後に「だから明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」と書いてある。これは、信仰はもとより、人間そのものが、「分かってしまってはお終いだ」ということ、分からないながら、なお分かっているということ、人間はそういう二重性的なものだ、ということが言われているのだと思う。井上神父の「これでいいのですよね」という疑いと祈りの二重性の真意も、井上の信仰の、そういう機微に触れているものだと思う。 (05104)

 

 

 

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