愛 の 構 造

小田垣雅也

 

「コリントの信徒への手紙 一」一三章一三節には、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」と書いてある。つまり信仰よりも愛のほうが「大いなるもの」だと言う。愛と信仰と、どちらが「大いなるもの」であるかをくらべてみても仕方がないが、普通は、ルターの「信仰のみ、めぐみのみ、聖書のみ」(sola fide, sola gratia, sola scriptura) の福音主義的原理を持ち出すまでもなく、少なくともプロテスタント信仰にとっては、愛より信仰のほうが基本的なものだと思われていると言ってよい。愛は、愛が欠けると信仰が観念的になるというような、信仰生活の具体的・倫理的要請であるとされるのが一般的であろう。この「コリントの信徒への手紙 一」一三章は、「愛の讃歌」と呼ばれており、愛がテーマであることもあるだろうが、愛のほうが信仰より基本的だと言うのである。愛と信仰に関して、普通の順序の逆転がここでは示唆されているようだ。そしてこの言い方は、愛の本意が、愛憎世界での愛とか、博愛主義、愛国心のようなレベル、またはアガペーとエロースとフィリアに区別されるような、概念化される以前の次元でのものだということを示唆しているように思える。愛は人間の存在構造そのものに根ざしたものだという理解かもしれない。

 

新年にあたってこのようなことを言い出したのは、小泉純一郎首相が初詣だと言って、今年は一月元旦に靖国神社を参拝し、「内閣総理大臣 小泉純一郎」と記帳し、玉串料は自費だったにしても、公用車で行き来したということがあったからである。小泉は要するに人間の存在構造としての愛に無知なのではなかろうか。わたしはどちらか言えば、イラク問題、構造改革等々についての小泉の政治姿勢に肯定的である。イラク問題についてはアメリカを支持する以外、現実政治家としては、ほかに選択肢はないはずだし(観念論的理想主義は、野党や新聞にはいいだろうが、現実政治には用をなさない)、構造改革もいろいろ妥協したとはいえ、やらないよりはましである。しかし、靖国神社参拝問題については全然同意できない。

新聞論調は(少なくとも朝日新聞に関する限り)小泉の靖国神社参拝に批判的である。しかしその批判の理由についてわたしは同意できないのである。少なくともそれらはきわめて浅はかな批判であると思う。その批判の理由は第一に、ナンバー・ワン(第一)の人を目指すのではなくオンリー・ワン(唯一)の人になりたいということが現代の、とくに若者の間で合意されているが(ちなみに、これは何とかという、若者に人気のあるボーカル・グループの歌のテーマであるよし)、靖国参拝や、それと同一心情にある自衛隊のイラク派遣は、この若者の合意に反するというものである。もしイラクで戦闘にまきこまれ、それによって戦死者がでた場合、この歌のような、人の命はそれぞれ「唯一のもの」として大事であり、掛け替えのないものだという生き方に応えられまいというものである。第二に、中国や韓国の反対を排してまで靖国参拝を強行する利点はない、とするものである。

それぞれ尤もな理由だが、理由としてはあまいし、外国にどう見えるかなどという理由は打算的でもある。もっとも深刻な理由は、最高の公人である内閣総理大臣・小泉純一郎として一宗教法人である靖国神社に参拝することは、憲法違反であるということがある。このことを根拠にして批判している論調はほとんどない。あったとしても極めて弱い。しかしこれこそが最も重要ではなかろうか。もちろん憲法は不磨の大典ではなく、改正されてもいいだろうが、その場合でも「信教の自由」は確保されていなければならないとわたしは思う。これは人間の思考が、宗教も含めてイデオロギー化し、人間を圧殺することがないために、歴史上累々とした悲劇を通して人類が学んだ教訓である。そのことに、内閣総理大臣としての小泉の靖国参拝は抵触する。

 

トレルチという神学者がいる。トレルチは一九世紀から二〇世紀にかけて(1865-1923)活躍した宗教史学者である。そして宗教史学的にいろいろな宗教を比較する比較宗教学の手法によって、キリスト教、佛教、イスラム教というような諸宗教を比較し、それによってキリスト教の絶対性・独一性を証明しようとした。しかし比較宗教学という方法によっては、ある宗教の絶対性を証明することはできないという結論に達する。ところが信仰とは人間にとって生きるか死ぬかの問題であり、したがって宗教というものは、どの宗教であれ、排他的に絶対性を主張するものである。小泉の神道信仰も、それがどれほど真面目な動機のものであるかどうかは別として、この宗教の排他性から導きだされるものであるはずである。政治的判断を別にすれば、それが靖国参拝に固執する理由であろう。しかし一方、そのことはどの宗教にも認められるべきものである。ここには排他的絶対性を持つべき複数の宗教同士の共存という矛盾があるわけだ。「信教の自由」の原則とはこの矛盾の上に立っている。その原則が崩れると、互いに排他的絶対性を主張する宗教同士のせめぎ合いになる。それが宗教戦争だ。しかしまた、宗教の排他的絶対性の要求をはずして、信仰とは人間の思い込みにすぎず、もともと相対的なものだといいうことになると、それはそもそも宗教そのものの否定になる。

そういう状況に直面して、トレルチは死後出版された最晩年の著述『歴史主義とその克服』(Der Historismus und seine Überwindung, 1924, 大坪重明訳、一九五六年)の中で次のように言っている。「神の生命は、われわれ地上の人間の経験では『一つのもの』ではなく『多くのもの』なのです。そして『多くのもの』の中にひそむ『一つのもの』を予感すること、これが愛というものの本質なのであります」(一三一頁)。この「一つのもの」とは一つの宗教で世界を統一するということではない。もしその場合は宗教的帝国主義になる。キリスト教も最近までそうであった。真正な宗教はキリスト教しかなく、キリスト教によって世界を支配しようとした。しかしそのことを認め難くしたのが宗教史学の結論であった。だから「一つのもの」とは多くの宗教がありながら、その多くの宗教の中に「予感」されるものだ。そしてそれが「愛というものの本質なのであります」とトレルチは言うのである。愛とはそういう規模のものであるらしい。そういう愛の感覚が小泉の靖国神社参拝にはないのが気になる。

またこういう事情もある。井上洋治と安岡章太郎の共著『我等なぜキリスト教徒となりし乎』(一九九九年)は、安岡の入信をめぐっていろいろ面白いことが書いてあるが、その中に安岡が遠藤周作の若いころの作品『ルーアンの丘』について次のようなことを書いているところがある。安岡によると、この小説の内容は全部遠藤の「体験」であろうが、体験がそのまま書いてあるのではなく、その体験をしぼりあげて「経験」にしていると。体験は経験ではない。そして体験を搾りあげて経験にするそのすごい握力に感動したと安岡は言っている。そして次のように言う。「すごい力です。その握力のもとになっているのは、やはり究極的には愛なんでしょうね」(同書、四八頁)。

愛は体験を経験にする力だというのである。尤もこの体験と経験の違いはドイツ語にはある。体験がエアレープニス、経験がエアファールングで、経験は体験が自覚化され概念化されたものであり、体験は経験になる以前の現実そのものである。そして信仰は体験に基づかなければならぬ、といいうような使われ方をする。実存主義的神学でそのことが細かく論じられた。そして体験を小説として人々に分かるようにし、言い換えれば経験にして人々の共有財産にするのが「究極的には愛なんでしょうね」と、安岡は言うのである。その経過は人々に関わろうとする際の必然であり、それが「究極的には愛だ」、と言う。つまりここでも、愛は博愛とかアガペーとかエロースというような倫理条項であることをやめて、人々のあり方そのものの構造的なものになっている。

 

少し話が理屈っぽくなったが、要するに愛は、人間が関係存在であることからの構造的必然性だということであろう。関係存在とは、自分が自分であるためには他の人が必要だということだ。それは人間の存在構造に根ざしている。その構造が愛なのだ。トレルチのように宗教の排他的絶対性を持ち出すまでもなく、わたしたちの生は掛け替えがない。それこそオンリー・ワンである。しかしそのことは、隣人あってのことであり、隣人にしてもそれはおなじである。そのことを可能にする「一つのもの」が愛だと言う。その「一つのもの」を、わたしたちは手にとることはできない。手にとることができるようになものは、愛についてのイデオロギーである。そしてその愛を理由にして、そのイデオロギーを認めない人を憎んだり、戦争をしたりする。これは愛を理由にした争いであり、史上ほとんどの宗教戦争の実情であった。またはせいぜい博愛主義になったり、祖国愛になったり(靖国神社のような)、アガペーとエロースのような、したり顔の分別知になったりする。もともと博愛主義や祖国愛が健全であるためには、それらの愛が、人間の構造としての愛を「予感」しているときであろう。この一年も、本当の愛を求めて生きて行きたいと思う。

(04114)

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