イ ン マ ヌ エ ル

小田垣雅也

 

 インマヌエル(Immanuel)はもともとへブル語で、ヘブル語ではイマド・エール「神われらと共にいます」の意味である。イザヤ書(七の一:九、十:一七)その他に言及がある。マタイ伝一章二二節以下では、それをキリスト論的に解釈して、次のように書いてある。「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通していわれていたことが実現するためであった。『見よ、乙女が身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』」。つまりここでは、キリストの降誕こそ、イザヤの預言の成果であると、キリスト論的に解釈されている。

 わたしはこれまで、神とは、対立を超えた全体なるもの、すべてを包括した自然なるもの、有―無の対立をこえた絶対無なるもの、だから対象認識的客観的事柄ではないという意味で人格なる者、と言ってきた(『人格神』の説教、参照)。しかしこのことは、滝沢克己の「原事実」と、少なくとも、関係がある。滝沢は、現実の人間の根源的規定を「インマヌエル」と呼んだ(これはバルトからの借用)。これは信仰と不信仰、キリスト教と他の宗教、有神論と無神論というような、「人間の側の区別に先立つ」、それ自体で無条件に実在する「原事実」である。これは神と人間との間のみならず、紙の表面と裏側、光と影の境目の線に先んじて、「無いことにおいて有る、間」(武藤一雄)である。他力信仰と自力信仰というような区別も、それは人間の側の区別である。したがって「原事実」は、そのような、人間の側の理由付け、「何故」を超出し、近代の自我主義の視野には入らない根源的原事実である。
 つまりバルトにおける神は、近代主義的な人間中心主義に対して、神中心主義的であるというのではない。人間中心主義も神中心主義も、人間の側における主義、「こちら側に立った」区別である。これはキリストにおける神の啓示を信ずるのか否かという、原事実の問題であって、人間がそれを信ずるか否かというような(裏と表のように)、「こちら側の区別」に先立つ現実である。「こちら側の区別」である以上、それは対象論理的になる。原事実はそのような人間の区別そのもの、つまり、有神論―無神論を超えた水準での現実である。
 したがってこの神は、中世的・他律的神や、近代的・自律的自我に対面した神ではない。つまり、有神論―無神論に対する仏教、特に鎌倉新仏教の批判は(しばしば佛教は無神論的であると批判されるが)正当であるばかりか、本来のキリスト教にとっても、歓迎すべきであると滝沢は主張している(滝沢克己『佛教とキリスト教』法蔵館、一九六四年)。

 そしてバルトは、この原事実としての神、その体現であるキリストが、神の唯一の歴史内での啓示であると主張している。これがいわゆるキリスト中心主義である。しかし滝沢はこのバルトの神理解に、当初は批判的であった。インマヌエル(神われらとともにいます)が、人間の思いを超えた「原事実」である以上、それはその原事実が歴史的に現成され、人間によって体験され表現された出来事とは違う。つまり原事実は歴史的出来事、その歴史的出来事になったという意味でキリスト中心主義とは違うと言って、バルトを批判したのである。バルトは伝統的なキリスト中心主義であり、それによると、インマヌエルはイエスによって典型的に生起したという。しかしイエスにおけるその生起は、インマヌエルの原事実そのものではない、と滝沢は主張した。前者は第二義の、後者は第一義の接触であると滝沢はいう。
 つまり滝沢によれば、インマヌエルの原事実とイエスの出来事とは同一視することはできない。両者の関係は不可分・不可同であるが、しかしインマヌエルの原事実としてのキリストと、イエスの出来事は不可逆であると言っている(滝沢同書、二一四頁以下)。
 そして伝統的なキリスト教は、バルトも含めて、この両者を区別せず、それを同一視している、と滝沢は批判している。イエスの歴史内での啓示と、神の原事実は切り離せないとバルトは主張しているのであり、この立場によって、バルト神学はキリスト中心主義であると言われている。しかしそれは必然的に原事実の、いわば「原」を危うくし、その場合、神の啓示をキリストに限るという、狭い意味でのキリスト中心主義が到来し、イエスを偶像とする道を開いている、と。
 禅も別の意味で、キリストの原事実とイエスの不可逆性を認めない。キリスト教との根本的違いはこの点にあるだろう。たとえば西田哲学が絶対矛盾的自己同一という場合、そのことを覚った覚者の覚の中には、その矛盾ないし「逆」を構成する両者は、不可分・不可同であるが、その両者の間に不可逆の順序などはない。禅では、その矛盾ないし「逆」は、あくまでも往相・還相の問題である。つまり、二重性である。しかしこのことが、すなわち原事実の不可逆な優先性を認めないことが、少なくとも現実の禅のあり方として、覚を固定し、仏そのものを危うくすることかから禅を救っているのではないか、と滝沢は言う。

 わたしはと言えば、インマヌエルの原事実と、キリストにおける歴史内でのその顕現は、本質的に「可逆」であって、それでなければ両者が不可分・不可同であることとも矛盾しようと言って滝沢に批判的であった(拙著『哲学的神学』一九八三年、六四頁、その他)。しかし滝沢が久松真一禅師に、原事実の、つまりキリストの人間にとっての不可逆的あり方を問うたとき、久松は終始「無語」であったという。わたしはその「無語」の意味が(無言つまり積極的な否定ではなくて)、これを書いているいま、分かったと思う。人間が対象論理化することなしに、その原事実を不可逆と言うことはできない。同時に可逆ということもできない。「無語」である以外に、人間が、どうして、無や絶対にたいして、不可逆という順序だてがありえよう。原事実も、「その不可逆性」は、それを人間が口にのぼせた瞬間、「教内の法」に、つまり対象論理化され、一種の嘘に変形してしまう。だからそのあり方は、声高に主張するまでもないことだ。だからこそ、それは「無語」であり「原事実」なのである。

 つまり、わたしはこれまでの「二重性」の立場を超えて、言い換えれば、原事実の「絶対無」性を超えて、本当の信仰(哲学ではなくて)、覚とは何かということを考えたいのである。やはり信ないし覚の根底は、インマヌエルの現実と、それをキリストにおけるその歴史内での顕現の、つまり滝沢がいう第一義の接触と第二義の接触の現実の承認ではあるまいかと思う。つまり二重性の承認である。これがキリストの特殊性ということの承認ではあるまいか。キリスト中心主義か否かという事態を超えた原事実にそうものではあるまいか。つまりバルトは、滝沢の批判にも拘わらず、正しいのではないか、と思う。そしてバルトのキリスト中心主義の立場を、宗教哲学の問題としてではなく、信仰の立場に立って擁護したいと思う。この立場は説教『お守り札』『人格神』以来わたしが追及してきたことでもあるが、そのことを考える前に、普遍は唯一、の中にあるということを考えたい。

 滝沢の「原事実」であるが、それが決して対象論理的認識にならない以上、認識としては、それは唯一性の理解になる他はない。超普遍者という、個に対向した観念性ですらない。概念化される以前の「普遍なるもの」は、それは概念化され一般化される以前のものなのだから、その理解は唯一なものである。もう少し説明すると、本当に「普遍なるもの」は、説明としてそれは決して「特化」され、対象になることはない。つまり対象論理化されることはない。対象になったら、それと並ぶ対象がある。それは同列に並ぶものがないという意味で、唯一である。その意味で、本当に普遍なる者は、唯一である。そのことは歴史的・時間的表現と切り離せないが、それらがその唯一を観念になることから救っている。
 汎在神論の教えるところによれば、対象とはもともと汎神論的である。汎神論は、あらゆるものの中に神を見る。その神々は同一水準に並んだものである。山の神も、木の神も、水の神もいる。世の中に神々は、対象として沢山いる。対象的思考とは、もともとそういうものだ。一方、汎在神論は、すべてを包むものとしての唯一の神を考える。その神は、人間を含むすべてのものを含むのだから、人間の思考の対象にはならない。それは超・対象論理的な神で、対象論理的に、つまり汎神論的に考えた一つの神を、絶対視するのではない。具体的歴史内での啓示を神とするのであり、それは汎神論的意味での神ではない。そしてその水準でのキリスト教の唯一にして特殊な啓示が、キリストの歴史内での啓示で、それが唯一だ、とバルトは言っているのではない。バルトはそういう意味での、つまり、汎神論の中のキリストの啓示が唯一だという意味で、キリスト中心主義であったとは思えない。

 このような意味で、インマヌエルの原事実は、それが「原事実」である以上、唯一なのである。キリストを信ずるという唯一性・歴史性に徹することによって、それは普遍的、歴史を超えた真理を明かしているとも言える。キリスト教、というよりあらゆる宗教がもっている自己の立場の絶対性の主張も、そういう水準にその根を持っているのであろうと思われる。それは「無きがごとくに有る」(武藤)のである。バルトがキリスト中心主義に捉われるのも、そのことが問題なのではなかったか。また滝沢が、晩年、バルトの立場を受け入れて洗礼を受けたといわれるのも、そのことが了解されていたからではないのか。つまり、普遍なる神は、歴史化されることなしに、観念的に普遍性を維持することはできないということだ。普遍の対象化は、その時間化・歴史化ということでもある。不可分・不可同・不可逆の立場には(もともとの滝沢の立場)、啓示の歴史性・時間性の問題はない。

 このように考えることで、わたしのキリスト教の唯一絶対性に対する不可解さ、またバルト神学に対する誤解も、解けたように思う。わたしはこれまで、ヨーロッパにおけるキリスト教文化の圧倒性に戸惑っていたふしがあるが、普遍は唯一の中にあると考えることによって、つまり唯一を普遍だと考えることによって、それは「信仰」としてのイエス・キリスト信仰が(宗教哲学的にではなく)わかったように思うのだ。それは神の啓示には、その時間化・歴史化・対象化の次元も必要だということだ。そのことを、信仰の観念化が救うのである。バルトのキリスト中心主義も、普遍は唯一の中にあるという、信仰の論理によって理解されるべきではないか。

 ヨーロッパの会堂には、存在論的威厳がある。それには数世紀にわたって建設された、人間の次元を超えたところがある。そのエネルギーの源はどこにあるか。それが、歴史的・具体性の中に、つまりこの教会堂の中に普遍性はあると考えることによって、解けたように思う。キリスト中心主義が普遍なる神に通ずるのである。バルトのキリスト中心主義は、決して、汎神論的な水準で、キリスト教絶対主義を主張しているのではない。キリスト教と佛教の対話も、そういう水準を降りることによって、可能となるだろう。
 この境地には、論理は一切通用しない。それはバルト神学の前々からの主張であった。そういう意味で、それは情緒の問題だ。このようにしてわたしは、自分のロマンティシズム的神学・二重性の神学の強化を考えるのである。

 

 

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