活 に つ い て

小田垣雅也

 

 少し神学的な話をします。理屈っぽい話はなるべく避けるようにしているのですが、今日はイースターだし、イエスの復活について、整理してみようかと思います。しかし復活は、論理的に整理しきれるものではありませんし、いわばきわめて神学的な話題です。クリスマスと復活は、キリスト教信仰の二本の柱と言ってもよいでしょう。クリスマスの――処女降誕の話は別として――、イエスが聖母マリアから生まれ、生まれたときはやはり赤ん坊であったということは、それ自体としては分かりにくくはありません。それは人間の原点を指し示しているようなところがあります、それに較べてイエスの復活ということは、分かりにくい。

 もっとも、E・シュヴァイツァーという新約聖書学者によれば(この男には会ったことがあります)、原始教団がキリストの復活節信仰を信じるようになり、それによって、初代教会を形成したのは、彼らが復活されたイエスに、史実として、出会ったからだといいます。そして四福音書の証言によれば、「復活の日に決定的な出来事が起こったことは、歴史家の立場から理性的に考えて、疑うことができない」と言っています(佐伯晴郎訳『イエス・キリスト』教文館、八一頁)。カトリックの門脇佳吉神父も同じような立場に立っているようです(『道の形而上学』、岩波書店、一九九〇年、二九八頁)。しかしその場合は、イエスの復活は、たとえ形はどういうものであれ、歴史的に実際起こった事実であって、それは神学以前のこと、それを信ずるか信じないかの、宗教的基準のようなものになるでしょう。第一、イエスの復活が、歴史的な事実であったとすると、復活したイエスは、その後どうなったのでしょうか。再び死んだのでしょうか。わたしは、復活のリアリティーは、このような史実の水準のものではないと思います。ではそもそも復活とはどういう事柄でしょうか。

 

 イエスの復活は、人格としての神と切っても切れない関係にあります。もともと復活は、高度に人格的な概念です。動物には復活はありません。動物にあるのは、せいぜい、個体の再生でしょう。人格神とは、パスカルの用語を使えば、哲学者の神ではありません。復活は、エジプト人たちが信じたような個人の再生ではありませんし(だからエジプト人たちはミイラを作ったと言われていますが)、まして一度死んだものが、再び息を吹き返すような現象ではないでしょう。ではその場合、人格神とは何でしょうか。

 わたしは『解釈学的神学』〈一九七五年〉以来「神は無(絶対無)と呼ぶのが相応しい」と言い続けてきました。これは少なくともこの国の神学界では、武藤一雄先生をのぞくと、初めてのことだと思います。わたしと武藤先生は、同じことを平行して言っていました。そして『解釈学的神学』を書いた頃、わたしは武藤宗教哲学の内容を知りませんでした。

 神が絶対者であるのなら、人間は相対的存在者ですから、その相対的視野によって絶対として認識されるものは絶対ではないでしょう。絶対は、この人の世の有為転変の中にある存在者によって、その存否が判断されるようなものではない。絶対他者という言い方にはそういうニュアンスがあります。絶対他者なる神は、人間の立てた仮構である人間中心的主観―客観的認識構図の対象である神、人間の主観による認識の対象としての神ではなくて、つまり一つの存在者として人間に認識された神、さらに言えば、信仰の「対象」としての神ではなくて、その認識をも超えた、その意味で、人間の認識にとっては絶対無としての神になるほかはありません。それが絶対他者としての神でしょう。

 だから絶対他者としての神を信じるのに最も邪魔になるものは、「絶対他者なる神を求める人間の信仰心そのものだ」ということをエックハルトも言っています。なぜなら信仰心は人間の心であり、人間の心は相対的視点によるものだからです。相対的人間が絶対他者と言っても、それは事実上、相対的になります。絶対他者とはそんな水準のもののことではない、とマイスター・エックハルトは言います。しかしそのような絶対無としての神が、なぜ人格神と結びつくのでしょうか。

 そもそも人格とは、絶対無ないし絶対他者の中でのみ人格でありえます。絶対無・絶対他者は、人格としてのみ絶対無であり、絶対他者です。そのことが分かるためには、その頃読んだ西谷啓治博士(一九〇〇〜一九九〇)の、次のような言葉がわたしにとって必要でした。すなわち「無という『もの』(つまり、主観―客観構図における、有の対極概念としての無)もない絶対無は、考えられた無ではなく、ただ生きられうるのみであるような無でなければならぬ」(「宗教における人格性と非人格性」『宗教とは何か』創文社、一九六一年、八〇頁)という言葉です。また西谷博士こうも言っています。(絶対無理解に関して)「徹底した生成の世界がそのままで、一種の完結性を持ってくること、生成が生成そのものとして、一種の存在という意味を持ってくるというべき世界であると」(西谷啓治「虚無と頽廃」上田閑照編『宗教と非宗教の間』、岩波現代文庫、二〇〇一年、一一八頁)。ほぼ同じことを鈴木大拙禅師も、「存在は生成であり、生成は存在である」と言っています(T. Merton, Zen and the Birds of Appetite, A New Directions Book, 1968, p.111)。このように、対象的・確定的認識、対象論理的認識を超えたものは、時間的・須臾的でのみありえます。それは考える「対象」ではなくて「それを生きるもの」であり、その意味で人格的であるほかはないのです。

 生きられた無ではなくて考えられた無は、無について人間が考える思考の対象です。それは人間によって「考えられた」対象として、対象論理的でして、したがってそれは人間の思考の対象として、絶対他者としての絶対無ではありません。絶対無は、無という対象、有の対極概念として、人間によって有と区別された無、いわゆる分別知による無ではなく、だからそれはただ生きられるものだ、と言われているのです。その意味で、絶対無は「ただ生きられるもの」です。そして生きられるものは、あえて言えば、人格です。少なくとも絶対無は、それを生きることと切り離せません。ここで存在論は宗教と結びつくと言ってもよいでしょう。

 このように、もともと絶対無は、「生きられるもの」なのですから、それは須臾的・時間的なものです。絶対無は対象として確定し、自分の向こうにあるもの、自分に対して恒常的に存在するものではありません。その上、わたしはこれまで、いろいろなところで繰り返したことですが、対象としての、それ自体で完結した科学的客観性とは、自分という主観にとってそう見えたというだけのものでして、その意味では主観的なものです。科学的客観性は、「主観的客観性」なのです。このような回路を通っても、絶対無は「ただそれを生きられるもの」、すなわち人格的なものだと言えるでしょう。それは科学的認識を超えたものだと言えます。

 

 理性で判断する知を超えた、いわゆる分別知を超えた無分別の知、本当の理解、人間同士のコミュニケーションとは、「無分別」の知の世界で「生きる」ことによって得られるのではないでしょうか(そのことを拙著『コミュニケーションと宗教』二〇〇六年、で書きました)。「無分別の知」での交流がないと、人間同士の交流とは、単に意見の一致に過ぎないものになります。それは労働組合の決議事項のような、論理的必然のみを追った、つまり偶然的なものになります。そして理性的判断、主観―客観的構図を超えた認識である「ただ生きられるもの」は、この文章でこれまで繰り返したように、人格的です。

 

 これまでの話を敷衍して言うと、「絶対他者」としての、言い換えれば「人格神」に気づいたこと、すなわち無分別の知に気づいたことが、わたしの回心の体験(という言葉をいま使うとすれば。対象としての神を、それに対する理性的疑惑を押し戻して、無理に信じたのではありません)の原点であると言えます。この話はこれまで、何回もくりかえしたことがあり、むしろわたしのその後の文筆活動(らしきもの)は、すべてこの自分の回心体験の言語化であると言えますが、それはこういうことです。

 わたしはイエスが神の子であり、十字架上での死から復活して天に昇り、自分が神の子であることを証明した、などということが信じられませんでした。これはいまでも信じられません。史実として信ずるなどは、論外です。キリスト教信仰が言うように、それを信じて救われたいと思っているのですが。しかし、この「信じられない」ということが、人間(の分別知)にとって当然のこと、少なくとも現代を生きている、このわたしという人間にとって、それ以外に仕方がないこと、であるならば、たとえキリスト復活の信仰を持てなくとも仕方がないと思いました。そしてそれは仕方がない、当然だという意味でそれは許されるはずだという、大きな肯定を、十字架につけられた神の子の「死」ということがまぎれもなく象徴しているということに、あるとき、突然気がついたのです。これが絶対他者である神の子の否定でなかったら、そのような効果はありません。相対的なものの否定は、もともと相対というあり方の中に否定は含まれているので、相対の否定からは何も出てきません。そしてこのことが、神の子の復活ということではないか、と思いました。このことは復活を信ずることを諦めたとき、逆説的に信仰に目覚めたと言えるかもしれません。だから後年、すでに引用したエックハルトの「信仰にとって最も邪魔なものは、信仰を求めている人間のその心だ」ということも理解できました。またそのことは、理性とか分別知の問題ではなく、信とか悟り、ないし無分別知の問題であることも分かりました。これがわたしの復活体験です。

 

 この場合重大なことは、「イエスの復活」と、「自分の復活」との関係はどうでしょうか。それは同時同体のものだと思います。もともと、この両者、すなわち「イエスの復活」と、それを信ずるようになった「自分の復活」を区別することのほうが、復活の現実から見て、おかしかったのかもしれません。それは分別知による復活理解でしょうから。右に述べたように、復活は分別知の現実ではないからです。わたしはこの文章を書き始めるまで、「イエスの復活」と「自分の復活」、つまり「古い自己」から「新しい自己」への自分の新生・復活を区別して考えていました。しかしこの文章を書きながら気がついたことは、この両者は同時同体のものでして、その両者を区別するのは分別知の水準による理解ではないか、ということです。理性的ないし宗教的に、分別知によって考えれば、イエスがまず復活し、それを信ずることで自分も復活するということでして、そのことは原始教団の復活節信仰の発生としてもそのように聖書に書いてあります。E・シュヴァイサーや、門脇佳吉氏のように、です。

 わたしもごく最近まで、「イエスの復活」と「自分の復活」を、区別して考えていました。そしてイエスの復活を優先して考え、それと自分の復活との両者の関係を曖昧なままにしていました。だから、イエスの復活とはどういう事態か、などということも問題になっていたのだと思います。しかし今は、「イエスの復活」と、「自分の復活」は区別できないものではないか、と思います。それが自分の率直な現実でありました。しかしその場合にのみ、イエスの復活は現実的なものになるのでした。つまり復活は自分の問題だったのです。それはまず史実としてのイエスの問題であり、その次にわたしの問題であるのではありませんでした。復活はそのような、信仰論的分別知の問題ではなかったのです。それは神が絶対他者として、人格神だったからだ、ということと照応しています。

 

 現代神学にとって絶対他者なる神は、人間の認識にとっては主観―客観構図における有―無の区別を超えた「絶対無である人格神」ですが、そのことを充分承知しながら、その神をなお、有という感覚でとらえ、さらにいえば、神として有神論的にとらえるか、またはその絶対無を率直に無として捉えるかということが、現代神学の課題だと思います。門脇佳吉神父とか、カトリックのトマス・マートンは前者だと思います。後者が西谷啓治とか鈴木大拙、または武藤一雄先生の「禅的神」理解でしょう。エックハルトとかクザーヌスもこれに近いです。この後者の方が、対象論理性を抜けきり、「人格的」であうように、わたしは思います。すでに述べたように、そこでは「生成が存在」「存在は生成」となり、それは「ただ生きられるもの」として、絶対無が人格神的になります。仏教とキリスト教の真の対話とは、このような水準でこそありうることだと思います。歴史において己を啓示した「人格なる神」が、絶対無としての存在なのです。右に述べたように、このように言いうる境地を「有」と表現するか「無」と表現するかということが問題で、それはもう、その人の趣味の問題かもしれません。東洋と西洋、仏教とキリスト教の違いです。対象論理として神が「有」り、その神の世界へ死後復活するという水準では、そのキリスト教と仏教の対話はありえません。

 

 それともう一つ。悟りや復活が目も覚めるような世界への悟達、安定した境地ではないことも記憶しておくべきでしょう。復活の生は、悩みのない生ではありません。遠藤周作氏も、死を恐れながら死んだということです。むしろその事実を悟ることが、復活の生の意味であるかもしれません。生老病死を超越した生がもしあったとしたら、それはそのように、その人が独善的に思い込んでいることに他ならないでしょう。

 鶴見俊輔氏が、「人はそれぞれに死に方がある。あらゆる人間は死ぬことによって偉大だ。偉大な先輩だ」といっています(〇六年一二月二七日の『朝日新聞』)。鶴見が言っていることは、自分の死に前例はないということ、したがってそれは、自分にとって常に不安な、実存そのものであること、それを経験することは、非日常的なことだと言う意味で「偉大な」ことだ、ということではないでしょうか。しかしその不安な立場に徹することが、復活の意味だとも思います。

 

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