非 神 話 化 論

小田垣雅也

 

 教会のホームページの「掲示板」の欄に、「乱読ママ」という人からの匿名の投書があり、そこでルードルフ・ブルトマンについてのやりとりがあった。バルトとかブルトマンという人々は、いまから半世紀前に活躍したドイツの神学者であり、みずき教会の説教では、その人々の見解は、前提はされているが話題にされたことはあまりない。しかしバルトやブルトマンが唱えた神学は、現代わたしたちが聖書を理解するにあたっての基本的な前提であるので、ブルトマンの非神話化論について、説明しておきたい。

 

 たとえばブルトマンは、キリスト教信仰の中心であるイエスの復活は神話であると言うのである。死者が復活するというのは、古代社会では、洋の東西を問わず、珍しくない神話であった。ブルトマンはキリスト教の復活信仰に関しては、イエスの十字架上での死と、復活とは区別して考えなければならないと言う。イエスの十字架の上での刑死は史実だが、復活はその史実としてのイエスの十字架の「意味」を、当時の神話的象徴で表現したものであるという。当時の常識では、宇宙は天と黄泉の国、それとその中間である地上との三階層からなっていた。だからこの地上で死んだ人が復活して天に昇天すること、または黄泉の国に墜ちることも、ごく自然に受け入れられていたのだという。そして問題は、イエスの十字架に直面して、弟子たち、さらには福音書を読むわたしたちが、新しい自己理解に目覚めるかどうかということであると言う。新しい自己理解に目覚めることが復活の「意味」であり、そのことを聖書時代の人々は復活という当時の常識上の言語で語ったのだと。しかし当時の常識である宇宙論とは全く別の、科学的宇宙観にたっている現代のわたしたちが、復活とか昇天のような神話をそのまま信じられないのは当然であるし、またその必要もない。

 復活に限らず、聖書の中には数々の神話がある。それらを、以上のような解釈の手続きを経ずに、丸のまま信ずることは現代の常識では不可能であるばかりか、有害ですらある。復活神話とは、イエスの十字架によって、わたしたちが新しい自己理解にめざめるかどうかという、聖書の「問いかけ」である。この聖書の「問いかけ」を離れて、神を観念的に考えることは、神をわたしたちの観念の中にとりこむことになる。一口に神とわたしたちは言うが、ブルトマンやバルトの場合、神を「神の語りかけ」という具体性を離れて考えることは神を対象物件にしてしまうことになる。対象物件は、わたしたちの生に直接かかわらない。この人々の神学が弁証法的神学とか「神の言葉の神学」と言われるのはそのためである。本当の生きた神は、人間が人間の観念の中に取り込むことはできない。人間が有限である以上、無限なる神に、人間が概念規定を――たとえ無限なるものという概念であっても――あたえることはできないからである。

 このことは、少なくとも神に関するかぎり、人間は神を概念的に理解することはできず、神についての表現は、それをくり返し非神話化していかなければならないということでもある。だから重要なことは、非神話化論とは、新約聖書の神話のみならず、神学全体の基本的方法であるといえるだろう。それは神を人間が語る場合の必然的解釈論なのだ。ブルトマンも「だからわたしたちはさらに無限に非神話化していかなければならないでしょう。・・・・これがこの問題の一般の討論において、ほぼ見落とされている一点なのです」と言っている。

 以上が非神話化論のあらましだが、ブルトマンについて言えば、ブルトマンは現代科学を前提にしているところがある。「電灯やラジオを利用し、病気になれば現代医学の薬を要求しながら、同時に新約聖書の諸霊の世界や、奇跡の世界を信ずることはできない」とブルトマンは言っている。古代の常識やその常識のもとになっている宇宙観による神話が表現しようとしていることを、現代世界に通用するように解釈し直すのが非神話化論だが、その作業には、ブルトマンの場合、現代科学文明の有効性は前提されているということがあるのである。しかしブルトマンが非神話化論をはじめて発表したのは一九四一年であり、以来、半世紀以上が過ぎている。そして現代は、環境問題、臓器移植をはじめとして、科学自身がもっている矛盾が諸所に噴出している時代だ。現代科学の普遍的有効性を前提していることはもはやできない。元来、非神話化論は、ブルトマン自身がハイデッガーの影響を受けていることからも伺われるように、極めて実存主義的・主体的な作業だが、現代はブルトマンによって前提されている科学すら、共通の価値観とすることができない時代になっている。その場合、「新しい自己理解」とはどのようなものになるか。

 

 今は二月の初旬である。紅梅も咲き始め、早春の感動が周囲に満ちている時だ。いわゆる啓蟄の候で、天地が新しく生まれ変わる時である。それは「新しい自己理解」の季節であるといえるだろう。わたしがほぼ半世紀前、神学を学び始めて、初めてブルトマンの『新約聖書と神話論』を読み、非神話化に触れた時は、わたしはそれまでの信仰上の問題が氷解したように思われ、「新しい」世界に踏み出したような気がした。ブルトマンの非神話化論に出会わなければ、わたしは神学を続けられなかったかもしれぬ。それは非神話化論が、単に神話の処理の問題だけでなく、「神の語りかけ」に応じて、自分が新しい自己理解をえ、本来的な自己になるべき「決断」が説かれていたからである。決断とは、自分が本当に新しくなることだ。決断と決意とは違う。決意とは、自分が新しくなると自主的に決心することである。しかしその場合、そのように決心する自己は、その決心の主体として、もとのまま残っている。それに対して決断とは、それによって自分自身が変わること、その意味で新しく生まれ変わることである。信仰とはそういうものだとブルトマンは言ったのである。

 しかしそもそも、「新しい」とはなにか。「古い」自己が新しいものとして考え出した「新しさ」は、「古い」自己によって考え出されているのであり、古い自己に裏打ちされている。その意味で、それは「本当に」新しくはない。新しい自己とは、古い自己がいわば死に、生まれ変わることだろう。その場合は周囲の世界も新しくなるのである。人間が世界―内―存在であり、世界と自分が二重性として存在している以上、自分が新しくなるということは、世界も新しくなることだ。新しさとは、古くはないから新しいのだというように、自分の裏打ちとして古さを必要としているようなものではなくて、全く別次元の新しさである。「新しく生まれ変わる」とは、そういうことだ。しばらく前流行した用語を使えば、パラダイムが交代することだと言ってもよい。そしてブルトマンの科学観には、このパラダイムの交代という視野はない。パラダイム論がトマス・クーンによって提唱されたのは一九六二年のことである ( 『科学革命の構造』 ) 。

 そしてブルトマンが考えたように現代では科学の普遍性が前提されていない以上、わたしたち人間は依存すべき規準を失って、より主体的になるほかはない。脱構築の神学というのがある。脱構築とは、ある文書の正しい解釈は常に「延期」され、手に取れる解釈は本当の意味から常に「差」があるという主張である。これが脱構築論の「差延」ということである。つまりその文書を残した人の本意を、われわれは再構築することはできないというのである。これは聖書に限らず、わたしたちの解釈というものは、常にそういうものであろう。まして聖書の主題葉「神の言葉」である。人間が聖書を解釈し、「神の言葉」にいたりつくことはない。だから聖書の神話の解釈も、現代科学という基準に至って本当の解釈になる、というのではなくて、神話の解釈はそれぞれの人の手に委ねられているという主張である。ブルトマンの実存主義的神学のように、聖書の「語りかけ」によって、わたしたちが主体的に、かつ科学と矛盾しないで生き始め、その方法が非神話化であるというのではなくて、自分自身の責任によって聖書を読まねばならぬと言うことだ。聖書解釈の手引きなどはないのである。脱構築の神学では、解釈に頼るべき基準はないことになる。どんなに偉い説教者にしてもだ。しかしそうしてのみ、本当の新しさ、言い換えれば本当の主体性ははありうるのではないか。主体性は常に新しい。

 神がいかなる人間の概念にも捉えられない以上、神は、少なくとも人間の認識にとっては、無にならざるをえない。しかしその無は、有に対抗し、人間に認識される無ではなくて、あらゆる解釈を許し、だから常に新しいものとしての無、あらゆるものを有らしめるものとして、それ自体では何ものでもない無、いわば絶対無であろう。現代科学に依存したブルトマンの非神話化論は、人間の主体性を強調した点では正しいが、それ自体を超えて、脱構築の神学、絶対無の神学にならなければならないと思う。これはわたしたちが非神話化を、新約聖書の神話のみならず、ブルトマンより広い分野で、繰り返していかねばならぬということだ。早春が感動的なのは、以後はじまる新しい生命の予感があるからではなかろうか。そのことは、ブルトマンの非神話化論そのものの要請でもあるだろうと思われる。 (05203)

 

 

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